終戦70年に寄せて

 
 2015年8月15日、終戦70年。その間、日本には平和な時間が流れ、いつしか平和を享受した戦争を知らない世代が大半を占め、政治的にも危うい道に向かっている危機感を覚える昨今、こんな時だからこそ、2015年の戦後70年の時は、平和への祈りの鐘を大きく高らかに響きかせる大切な時なのだと強く思います。
 私は1949年1月、終戦から3年4か月足らずで石川県七尾市で生まれた所謂、団塊の世代の一人です。
父は埼玉県所沢の陸軍飛行学校で操縦教育を受けた陸軍航空隊のパイロットでした。東南アジア、インド洋の戦闘を奇跡的に生き抜き、最後は沖縄に特攻として召集され、出撃の順番を待っていた時に終戦を迎えることが出来たのです。沖縄諸島周辺の特攻作戦でも海軍およそ2000名、陸軍およそ1000名が特攻により戦死したと言われていますから、父に出撃命令が下されていたら私は生まれてくることはなかったでしょう。父が奇跡的に生きて故郷・能登に帰ってこれたことで、私はこの世にいのちをもらえたのです。
未来あるたくさんの日本の若者たちのいのちの犠牲の上で終戦を迎え、そして、いのちが誕生した我々段階のの世代は、こうして平和な時間の中で生きてこれたことに感謝してもしきれない、そのことを形に表すとしたら平和を守り抜くことをずっと引き受け、戦争を二度と起こしてはいけないことを未来に引き継いでいく橋渡しをすることでしかないのではないでしょうか。
 私が小学生の頃、父はまだまだ戦争の生々しい記憶から抜けられなかったのでしょう。パイロット姿の凛々しい写真を見せながら、戦地での悲惨な出来事を、たまに現地の人との微笑ましい出来事などよく語って聞かせてくれました。父にとって青春の記憶は戦争の記憶そのもの、私たちのように自由に青春を謳歌できなかったその特攻の生き残りの父の語り口は、いつもどこか悲しみが見え隠れしていました。まだ小学生だった私はその話を断片的にしか覚えていないのですが、その中でもよく口ずさんでいた消灯ラッパのメロディーで「兵隊さん可愛やね、また寝て泣くのかねー」という自虐的な歌は今でも耳に残っています。今になってみるともっと色々と聞いておきたかったと思っても、父はもういないのです。私が40代の時に他界してしまいましたから。少し早過ぎました。
しかしながら、父が私に語ってくれたことが、私の音楽活動をする上での使命感に繋がっています。
 私のプロデューサーとしての歴史の中で、加古隆映像の世紀 2000年スペシャル・コンサート」を20世紀が終わろうとしている時に、突き動かされるようにプロデュースしたのもつまり、戦争で亡くなった方々のレクイエムをしなければ21世紀に向かえないという強い思いがあったからなのです。故郷・石川を含め、東京・大阪・福島で開催しましたが、会場に足を運んでくださった多くの方々から、何故か涙があふれて止まらなかった、記憶に残るコンサートだったと言われました。それぞれの胸に去来する20世紀に思いを馳せた瞬間だったのかもしれません。戦争で亡くなった方々が天国から落とした涙だったのかもしれません。
 音楽業界に入って、自分の思いを形にするために、CONCORDIAを創業した時に、「CONCORDIAは、地球という惑星が平和で美しい星でありますように心から希望っています。音楽・芸術文化は平和の使者であり、人々のこころに射す光であることを信じています。生きとし生きるもののいのちを優しい眼差しで見つめ、心が震える感動を真摯に伝えることに努めていきたいと願っています。民族を越え、国を越え、CONCORDIA(和・輪)の力で、私たちは未来を創造しつづけたいと願っています。音楽・芸術文化への限りない愛を胸に。」と掲げた宣言文は小学生の頃に父から聞かされた戦争の話に起因していることは言うまでもありません。
 2015年5月にコンコルディアも創業12周年を迎えました。創業時にプロデュースした「JUPITER」のテーマもいのちへの思いを伝えるものでした。丁度、干支が一巡したことを機に、また原点からこの仕事をスタートさせたいと思い、プロデューサー名を旧姓の藤橋由紀子として活動することにしました。
リーマンショック東日本大震災、日韓問題と苦難の日々は続き、言葉さえ失う日々でしたが、戦争で苦しんだ人々のことを思うとへこたれてはいらないと何年振りかにこのブログを書きました。音楽を通していのちへの思い、平和への祈りを伝え続けていくことを胸に誓う私の2015年8月15日でした。

                                               プロデューサー藤橋(近藤)由紀子

写真家・宮本敬文さんとの出逢いから生まれたプロモーションビデオ

宮本敬文とカンボジアの子供達

7月29日〜AppleのホームページのHot News Headlineに「宮本敬文:写真家から映像作家へ―表現の領域を広げるFinal Cut pro」に事例としてkenny「涙〜世界のどこかで瞬間」の音楽と映像がUPされました。
思えば昨年の11月に、ADKアーツのロビー受付で宮本敬文・撮影写真集「GIFT to children of Angkor」と運命的な出逢いをしたことからこうしてインターネットを通して大勢の人々にプロデュース・作詞を担当させていただいたKenny「涙〜世界のどこかで瞬間」のPV制作のストーリーと共に、聴いて、見てもらえるなんて不思議です。そしてありがたいですね。新人アーティストに割くPV制作費はかなり低予算なので、まさか映像を撮ってもらえるなんて思ってもいなかった私は、その写真集の写真を使ってドキュメンタリー映像が出来ないものかと考え、初対面の宮本敬文さんにそういう風にオファーしたところ、宮本さんは「カンボジアに撮りに行きましょう。」といとも簡単に撮影・監督をお引き受けくださったのです。宮本敬文さんは一見するとお坊さんのような風情があり、思わず拝みたくなるような慈愛の心が感じ取れる、だが目は鋭く、強い意志を感じさせるアーティストで、このアーティストなら絶対大丈夫と胸が熱くなったことを今でも覚えています。私は宮本敬文さんが世界的なミュージシャン・STINGや日本国内外の数々の有名アーティストを撮っていらっしゃるプロフィールなど全く知らずにただ、「Gift」の写真集に突き動かされて、彼との出逢いをADKアーツのチーフプロデューサー・涌井晃さんにお願いしたのです。Kenny「涙〜世界のどこかで瞬間」の音楽が完成してからずっと、この音楽のPVはドキュメンタリー映像にしたいと考えていたのですが、予算もない中そんなに簡単にドキュメンタリー映像は撮れるものではないと思案に暮れていた矢先に、一冊の写真集からこうしてPV撮影が実現していくのですからまさに奇跡のようでした。2008年も終わろうとしている年末の慌ただしい中、私とKennyは先発でカンボジアに発っている宮本敬文さんを追うように、ADKアーツの方々と成田空港を飛び立ち、ソウル経由でシェムリアップ空港に降り立ちました。翌日から、撮影隊一行7名は、英語が話せるソターという目鼻立ちがはっきりとしたきりりとした男前のカンボジアの青年に通訳を兼ねてアテンドしてもらいながら、マイクロバスで移動し、撮影が開始されました。来る日も来る日も孤児院、学校、村を移動しながら、偶然出逢った子供達を宮本敬文さんは撮り続けました。常に子供達の目線の高さにRed Oneというかなり重量のあるカメラを向け、カンボジアの空の下、自然光で撮り続けました。貧しくとも命を輝かせて生きているカンボジアの子供達のピュアな美しい瞳に引き込まれ、思わず涙がこぼれてきそうなKenny「涙〜世界のどこかで瞬間」の傑作PVの撮影はこうして行われたのです。もう一度カンボジアに行きたい、そしてあの子供達に会いたい。何故か日本人が忘れてしまったものを取り戻せそうなあたたかな国にいたあの時間はとても幸せで心地よかったのです。行動を共にした撮影メンバーも皆同じようなことを感じていたと思います。私はプロデューサーとしてこの音楽の持つ力を信じ、世界中の人々にこの映像を見てもらい、子供達が笑顔で暮らせる戦いのない世界の平和への祈りを届けたいと願っています。
子供達は人類の未来そのものなのですから。宮本敬文さんをはじめPV制作のために支えてくださったスタッフの皆様、カンボジアで出逢った子供達のためにも精一杯努力し続けていきます。
                                                            音楽プロデューサー 近藤由紀子

※掲載した写真は「カンボジアの想い出」としてADKアーツの涌井晃さんからプレゼントしていただいた写真の中から抜粋したもので、宮本さんが 撮影の合間に子供達と写真を撮ってもらっている一コマです。

                                                 

http://www.apple.com/jp/pro/profiles/miyamoto/
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090608-00000015-yonh-musi
http://www.business-i.jp/news/ind-page/news/200906270024a.nwc

中越地震で被災した中村良子さんと盲導犬ペギーとの偶然の出逢い

中村良子さんとペギー

2006年7月のこと、新潟県中越地震で被災した視覚障害者の中村良子さんと共にそれを乗り越えた盲導犬クララとの別れのドキュメンタリーがフジテレビのニュースで放映されたのを溢れてくる涙をぬぐいながら、鼻をぐしゅぐしゅしながら見ていました。中村良子さんの優しい心が画面から溢れ出ていて、別れたくない二者の思いと、盲導犬としては引退しなければならない定めとが交錯しながらも、強く明るく前向きに生きる中村良子さんの姿勢に感動で涙が溢れたのです。それから間もなくのこと、神戸出身のCG作家の要請で神戸の子供達のためのイヴェントに協力するため、東京駅へと中央線に乗ったところ、何と目の前にその中村良子さんと盲導犬がいるではありませんか。目を凝らしてじっと見ていましたが、誰も付き添う方がいらっしゃらない様子。混雑した東京駅に着くと連休の初日で大混雑していました。中村良子さんを先導していた盲導犬が戸惑っている様に見えた私は、「新潟にお帰りですか。」と思わず声を掛けたのです。「はーそうです。」「実はフジテレビのニュースを見ていたものですから、新潟新幹線の改札口までお送りしましょうか。」「それはありがとうございます。助かります。」会話は続き、新潟新幹線の改札口までお送りしたところ、中村良子さんは一冊の本を私に差し出し、お礼にとプレゼントをしてくださったのです。それがまさに私がニュースで見た盲導犬クララが表紙になった「震災にあった盲導犬クララ」という本でした。初代盲導犬ハイジと日本で初めて地震のための避難所に入った2代目クララと中村良子さんとの心あたたまる交流を綴った感動の実話です。後で伺ったのですが、中央線で出逢った盲導犬はクララではなく3代目ペギーで、その日が良子さんとの新たなパートナーとしてのスタートの日だったそうです。指導員は恐らく遠くから見守っていたのでしょう。そしてその日は私と中村良子さんにとっても交流がスタートした日だったのです。その後、私もお礼にプロデュースしたKennyのデビューCD「アナタニアイアタイ」をプレゼントで贈らせていただきました。良子さんはお米やご自身で作られた農作物やお酒を度々送ってくださったり、KennyのCDを買いたいとお金を送ってきてくださったり、電話でお話をしたりしてお付き合いを続けてきました。2月18日にリリースしたKenny 2nd Single「涙〜世界のどかで瞬間」をとても気に入ってくださり、沢山の方々に勧めて応援してくださった良子さんのためにいつか生のライブを届けに行きたいとお話しをしたところ大変喜んでくださいました。それから良子さんから事務所に突然お電話があり、小国町(現長岡市)の役場に話してくださったそうで、夏祭りや色んな提案が出ていることを知らせくださいました。ありがたいお話です。私と中村良子さんの出逢いからまだ、行ったこともない町の子供達にも「涙〜世界のどかで瞬間」のテーマを音楽で届けられることが実現できるかもしれないと思っただけで心が躍りました。そしてまた、嬉しい電話。明後日東京に用事があっていくのでその翌日事務所に中村良子さんとぺギーが来て下さるというのです。そして、4月13日中村良子さんとぺギーと東京駅以来の再会が実現したのです。一緒についてきてくださった良子さんのご近所の田村さんKennyも加わって、一緒にお昼を食べながら楽しい再会の時を過ごしました。良子さんとその良子さんを支えてくれた盲導犬たちのためにも「涙〜世界のどこかで瞬間」のコンサートを新潟で実現させたいと願いながら後姿をずっと見送りました。ペギーの後姿がなんとも言えず愛らしく思わず可愛いと思った瞬間、ペギーが振り返ってくれて胸を熱くしました。ありがとう良子さん、ペギー。
                                      音楽プロデューサー 近藤由紀子

能登半島の空と海から平和への祈りを

2009年2月22日、kenny「涙〜世界のどこかで瞬間(いま)」ライブコンサート×宮本敬文写真展「GIFT」to children of Angkor を故郷・能登半島の七尾からスタートさせることが出来ました。「涙〜世界のどこかで瞬間(いま)」の音楽のテーマは、こぼれた涙を未来の子供たちの光に変えていかなければならないという強いメッセージの歌詞で、魂を震わす美しいメロディーにのせて世界中の人々にKennyの歌を聴いてもらい、そのメッセージを届けたい。一方、宮本敬文撮影写真集「GIFT」は、アンコール小児病院とその周辺の子供たちの穢れない魂で懸命に生きる姿を撮ったその子供達からの命の輝きの贈りものとも言うべき写真、そして、宮本敬文初監督作品で、カンボジアの村、学校、孤児院の子供たちの胸を打つ笑顔を撮ったドキュメンタリーPVの上映、このコラボレーションで、能登半島の地から命への思い、愛と平和への祈りを日本、アジア、世界へ届けたいという私の強い願いを受けた故郷の仲間達が共感し、懸命に動き、話があってからわずか1ヶ月足らずでこのライブを実現させてくれたのです。思いが集まって皆で力を合わせれば大きな力になる事を実感させられました。一部は、未来を生きる子供たちにこのメッセージを伝えたいという思いから、七尾市内の中学生が招待されました。終演後の少年、少女の顔を見たとき、間違いなく何か感じてくれたことを確信しました。延べにして550人くらいの人が石川県七尾美術館へ足を運んでくださり、あたたかな空気が会場一杯に溢れました。富山県からも金沢からも足を運んでいただいた方もいらっしゃって、本当に嬉しかったです。CDにサインをするKennyも写真集にサインをする宮本敬文さんも「涙〜世界のどこかで瞬間(いま)」の作曲をした山路敦司も皆、素適な笑顔でした。
陸軍航空部隊のパイロットだった父が奇跡的に生きて帰れて生を受けた、能登半島のその地から、20世紀という時を越えて、21世紀のこの時にこうしたライブをスタートさせることが出来たことは、意味のあることだったに違いないと確信めいたものを感じました。
何故なら21世紀になってもまだ、世界では戦いがあり、テロがあり、貧困があり、病気があり、飢餓があり、多くの子供達が涙をこぼしている現実があるからです。それでも人は瞬間(いま)を生き抜いて、明日の幸せを夢見て強く生きていってほしいと願いながら、この日の感動を胸に刻み、日本から世界へとkenny「涙〜世界のどこかで瞬間」の音楽と映像で、愛と平和への祈りを届けていくために精一杯活動をしていこうと心に誓った日でした。このイヴェントの実現に動いてくださった皆様、ご支援してくださった皆様、会場に足を運んでいただいた皆様に心から感謝申し上げます。

                                       プロデーュサー 近藤由紀子

悟空の一周忌

響太郎が我が家にやってきた

1月27日は愛猫・悟空の一周忌でした。2日前の日曜の午後に娘夫婦と共に悟空が眠っている府中にある慈恵院で、一周忌のためのお経をあげてもらいました。20年5ヶ月もの長い間共に暮らした家猫の悟空が何故、命を終えるまでの1週間を外でさ迷わなければならなかったのか、しかも東京に雪が降った2008年の最も寒かったそんな時に。思い出す度に私は自分の不注意を責め、胸が痛くなるのです。「悟空ごめんね。寒かったね。」と繰り返し繰り返し天国の悟空に謝りながら涙で目をうるませている私です。心ある人に助けられ、運ばれた動物病院から意識のないまま戻った低体温の悟空を、ずっと温めながら撫でていた手の冷たい感触が今でも忘れられません。その3年前に先に旅立ち、姉のような存在だった愛猫・花が、家で最期まで生き抜いたことを思うと余計に悟空が不憫でならないのです。
我が家に出入りする人たちからとても可愛がられたアイドル猫だった悟空は、旅立った時に、たくさんの人達からお花やあたたかな言葉をいただきました。悟空は愛すべき自慢の猫だったと今更ながら思います。その命のメッセージは以前の日記で書かせていただきましたが実にたくさんありました。
そして、悟空のこの過酷な最期の1週間があったからこそ、それまで知らなかった、こうした小さな命を救い、里親探しの活動をしているボランティアの人達の存在を知ることになったのです。そしてひとつの縁が繋がりました。都内の某所の大通りで子猫が4匹ダンボールに捨てられ、一匹はすでに車に轢かれて亡くなっていたそうですが、捨て猫の里親探しをしている心ある姉妹に拾われてお世話をされていたその子猫を我が家の新しい家族として迎えることになったのです。その猫は響という名前が付けられていたため我が家にくることになったのです。音楽の仕事をしている私には、何故か縁を感じたからです。現在の名前は響太郎です。昨年9月7日に我が家にやってきて、現在は6ヶ月ぐらい。捨てられていたので誕生日はわからないのです。でも、この小さな命が我が家を明るく楽しく、仕事で疲れた私を癒してくれています。
きっとこれも悟空が私達に贈ってくれた最後の「GIFT」だったのかも知れません。悟空、ありがとう。私達は同じ時代に同じ地球という星に生まれたいのちの同士だったものね。現在、お母さんが取り組んでいる「涙〜世界のどこかで瞬間」の音楽でいのちのメッセージが世界のたくさんの人々に届くように天国から応援してね、悟空!

音楽プロデュサー 近藤由紀子

還暦の日に受け取った大きな贈りもの

yukigeshiki2009-01-20

2009年1月8日、無事に還暦を迎えることが出来ました。人生60年、振り返れば沢山の人との出逢いと別れがあり、長い自分史があります。そもそも還暦は十干十二支の組み合わせの干支が一巡して赤ちゃんの時に戻ったことを祝うものです。それゆえ赤のものを身につけたりします。赤は魔よけの意味も持ちます。60歳まで無事に生かされたこと、そしてもう一度生まれ変われるチャンスをもらえたことを空に向かって心から感謝をしたい気持ちです。まさにそんな目出度い日にプロデュース・作詞を手掛けた「涙〜世界のどこかで瞬間」のドキュメントPVが出来上がってきたのです。家族や友人からのプレゼントは言うまでもなく有難く、嬉しいものでしたが、そのPVがまさに私の還暦の日に完成したことは、自分の人生に誇りをもてる大きなプレゼントとなりました。その8日に日が変わった午前早い時間(遅い時間と言ったほうがいいのか?)は写真家・宮本敬文さん、レコード会社の方、代理店の方と酒盃を交わし西麻布の料理のおいしいお店で舌鼓を打ち本当に幸せな一夜でした。
前回のエッセイと重なる部分もありますが、「涙〜世界のどこかで瞬間(いま)」の音楽の誕生からその大きな贈りものとなったストーリーを還暦の祝いの記憶として残しておくためにも書き留めたいと思います。
映像ジャーナリスト・長井健司さんが2007年9月27日、ミャンマーで取材中に撃たれたニュース映像を目の当たりにしたその時、私の身体の中を駆け抜けていく何か熱いものを感じました。山路敦司が作曲した曲に詞を付けようとしていた私は、その瞬間、詞が溢れ出てきてわずか1時間足らずで歌詞を書き上げました。それが「涙〜世界のどこかで瞬間(いま)」です。長井健司さんがいのちを懸けて映像で伝えようとしたものと、愛するわが子のいのちをどんな戦いの中でも守り抜こうとする世界中の母親の強い意志が私に詞を書かせたのかも知れません。こうして生まれた歌だからこそ、そのPVはどうしてもドキュメンタリー映像にしたいと願っていました。そんなある日偶然にも、某広告代理店のCMプロデュサーと待ち合わせをしていた受付に置かれていた一冊の写真集が目に留まりました。真っ赤な十字架のようにも見えるリボンをまとったような宮本敬文・撮影「GIFT」という写真集でした。手にとってみると“この本はカンボジアの子供たちから贈られた命のフォトメッセージです。”と書かれていました。すぐにその写真集を手に取って、中の子供達をじっと見ているうちに「涙〜世界のどこかで瞬間」のドキュメントPVを撮ってもらうのはこの写真家しかいないと思い、待ち合わせをしていたプロデュサーにその話をしたところ、音楽を聴いてすぐに繋いでくださったのです。そして宮本敬文さんとお目にかかることになりました。願いどおり、宮本敬文さんは音楽を聴いて、歌詞のテーマの中心となった子供達を、しかも「GIFT」と縁のあったカンボジアの子供達を撮影することを喜んで引き受けてくださいました。予算の少ないこのPV撮影は実現できるかどうか不安だったのですが、宮本敬文さんをはじめ国内外の多くの人々のご協力とご好意で実現することとなり、乾季のカンボジアの青空の下、孤児院や学校や村を訪ね、貧しくとも命輝かせて生きている多くの子供達との出逢いで撮影が行われました。宮本敬文・撮影写真集「GIFT」との出逢いから、子供達の命の輝きを映像で撮った宮本敬文初監督の「涙〜世界のどこかで瞬間」のドキュメントPVはこうして誕生したのです。撮影を終えて帰国後、年末のあわただしい中、編集中の宮本敬文さんからお電話をいただきました。「近藤さん、僕はあまり自分を褒めることはないのですが、これは本当に自信作になりました。こんな撮影の機会をくださって本当にありがとうございました。」と。胸が熱くなるこの宮本さんのお電話は、「涙〜世界のどこかで瞬間」で愛と世界の平和への思いを出来得る限り多くの人々に伝えねばという思いをますます私に強くさせました。
21世紀になってもまだ、世界では戦いがあり、テロがあり、貧困があり、病気があり、飢餓がある。多くの子供達が涙をこぼしている現実があります。それでも人は瞬間(いま)を生き抜いて、明日の幸せを夢見て強く生きていってほしい。「涙〜世界のどこかで瞬間」で世界中の人々にその願いが届けられますように。
このストーリーの登場人物以外にも、この音楽に惚れ込んでドキュメントを創ってくれたKNBの上原君はじめこのライブを能登半島から発信しようと支えてくれている七尾の皆様他実に大勢の方々に支えられている60歳の私は幸せです。この幸せを少しでも誰かを幸せに出来るエネルギーに変えて生きていこうと誓う還暦の私です。

                                     音楽プロデューサー 近藤由紀子        

長井健司さんの1周忌に寄せて

yukigeshiki2008-10-17

2007年9月27日のこと。その日、私は弊社所属の作曲家・音楽プロデュサーの山路敦司が、大森一樹監督作品「悲しき天使」」(湯布院映画祭オープニング上映、おおさかシネマフェスティバル、第19回東京国際映画祭「ある視点」部門オープニング、京都映画祭招待上映)の映画音楽のメインテーマ曲に歌詞を付けようと自宅で音楽を聴きながらあれこれ詩作をしていた。元々はあるアーティストが歌うために作曲したデモ曲だったが、レコード会社の意向で使われずにあったものを、音楽監督を依頼された「悲しき天使」の映画音楽に合うということで、オーケストラバージョンにアレンジをしてチェコフィルの演奏でメインテーマ曲として仕上げたのだ。そして、嬉しいことに「おおさかシネマフェスティバル」の一般鑑賞者の投票による音楽賞を受賞までしてしまったものだった。お蔵入りになるところだった音楽がこんな風に日の目を見るということはそうはないことだし、こんなに美しいメロディーはそうそう生まれるものではないので、「元々歌ものだったのだから歌詞を付けて歌として出すべきよ。」と私が山路に主張したことからそのメロディーに歌詞を付ける羽目になったのだった。漠然と「Love&Peace」をテーマに書こうとしていたのだが詞が浮かんでこないまま時が過ぎていた。
その時、テレビの11時台のニュースを見た私の目に飛び込んできたものは、映像ジャーナリストの長井健司さんがミャンマーで軍事政権に反対する僧侶や市民のデモの取材中に撃たれた映像だった。撃たれてもなお天に向かってカメラをしっかり握りしめている映像は衝撃でした。何の武器も持っていないカメラを手にしたジャーナリストを射殺するなんて許せないという憤怒がこみ上げてきたと同時に、私に生きて在るいのちの大切さを伝えた陸軍の航空部隊のパイロットだった父が駐留していたビルマなんだ、そう言えば父はビルマ語を少し話していたようなと父のことも思い出された。すると私の身体の中を駆け抜けていく熱いものを感じ、歌詞が溢れ出てきた。書き上げるのに一時間はかからなかったと思う。
映像で長井さんがいのちを懸けて伝えようとしたものの強い意思が、音楽で平和への思い、いのちへの思いを伝えようとそして未来を生きる子供達に光を届けたいと、コンコルディアという音楽事務所を立ち上げ、たくさんの人の応援で悪戦苦闘しながら運営してきた私への強いメッセージになったことは間違いない。
こうして、溢れ出たその歌詞でKennyが歌い7月にレコーディングを終え、「涙〜世界のどこかで瞬間(いま)」という歌がついに誕生した。この歌が生まれたそのことを伝えたくて、聴いてもらいたくてまずAPF通信の山路徹代表を社に訪ねた。山路さんは心なしか目が潤んで「素晴らしい、これは長井のテーマ音楽にしたいくらいだ。」と仰ってくださって、その後のメールでも一晩中聴いてくださったというあたたかなメールを送ってくださり、何とも言えぬ気持ちにさせられた。
出来るだけたくさんの人にこの「涙〜世界のどこかで瞬間(いま)」を聴いてもらいたい。そしてそのメッセージを伝えたいという思いで現在はいっぱいです。不安定な社会情勢の現在だからこそ、この音楽はきっと人々の胸に届くに違いないという強い信念が私を動かしています。リリース予定は2009年2月18日ですが、その前に音楽はどこかで聴こえてくることでしょう。
長井健司さんあなたが残したたくさんのメッセージを私も確かに受け取りました。ありがとうございました。「涙〜世界のどこかで瞬間(いま)」を天国で聴いてください。


APF NEWS http://www.apfnews.com/whatsnew/2008/11/1111kenny.html