終戦70年に寄せて

 
 2015年8月15日、終戦70年。その間、日本には平和な時間が流れ、いつしか平和を享受した戦争を知らない世代が大半を占め、政治的にも危うい道に向かっている危機感を覚える昨今、こんな時だからこそ、2015年の戦後70年の時は、平和への祈りの鐘を大きく高らかに響きかせる大切な時なのだと強く思います。
 私は1949年1月、終戦から3年4か月足らずで石川県七尾市で生まれた所謂、団塊の世代の一人です。
父は埼玉県所沢の陸軍飛行学校で操縦教育を受けた陸軍航空隊のパイロットでした。東南アジア、インド洋の戦闘を奇跡的に生き抜き、最後は沖縄に特攻として召集され、出撃の順番を待っていた時に終戦を迎えることが出来たのです。沖縄諸島周辺の特攻作戦でも海軍およそ2000名、陸軍およそ1000名が特攻により戦死したと言われていますから、父に出撃命令が下されていたら私は生まれてくることはなかったでしょう。父が奇跡的に生きて故郷・能登に帰ってこれたことで、私はこの世にいのちをもらえたのです。
未来あるたくさんの日本の若者たちのいのちの犠牲の上で終戦を迎え、そして、いのちが誕生した我々段階のの世代は、こうして平和な時間の中で生きてこれたことに感謝してもしきれない、そのことを形に表すとしたら平和を守り抜くことをずっと引き受け、戦争を二度と起こしてはいけないことを未来に引き継いでいく橋渡しをすることでしかないのではないでしょうか。
 私が小学生の頃、父はまだまだ戦争の生々しい記憶から抜けられなかったのでしょう。パイロット姿の凛々しい写真を見せながら、戦地での悲惨な出来事を、たまに現地の人との微笑ましい出来事などよく語って聞かせてくれました。父にとって青春の記憶は戦争の記憶そのもの、私たちのように自由に青春を謳歌できなかったその特攻の生き残りの父の語り口は、いつもどこか悲しみが見え隠れしていました。まだ小学生だった私はその話を断片的にしか覚えていないのですが、その中でもよく口ずさんでいた消灯ラッパのメロディーで「兵隊さん可愛やね、また寝て泣くのかねー」という自虐的な歌は今でも耳に残っています。今になってみるともっと色々と聞いておきたかったと思っても、父はもういないのです。私が40代の時に他界してしまいましたから。少し早過ぎました。
しかしながら、父が私に語ってくれたことが、私の音楽活動をする上での使命感に繋がっています。
 私のプロデューサーとしての歴史の中で、加古隆映像の世紀 2000年スペシャル・コンサート」を20世紀が終わろうとしている時に、突き動かされるようにプロデュースしたのもつまり、戦争で亡くなった方々のレクイエムをしなければ21世紀に向かえないという強い思いがあったからなのです。故郷・石川を含め、東京・大阪・福島で開催しましたが、会場に足を運んでくださった多くの方々から、何故か涙があふれて止まらなかった、記憶に残るコンサートだったと言われました。それぞれの胸に去来する20世紀に思いを馳せた瞬間だったのかもしれません。戦争で亡くなった方々が天国から落とした涙だったのかもしれません。
 音楽業界に入って、自分の思いを形にするために、CONCORDIAを創業した時に、「CONCORDIAは、地球という惑星が平和で美しい星でありますように心から希望っています。音楽・芸術文化は平和の使者であり、人々のこころに射す光であることを信じています。生きとし生きるもののいのちを優しい眼差しで見つめ、心が震える感動を真摯に伝えることに努めていきたいと願っています。民族を越え、国を越え、CONCORDIA(和・輪)の力で、私たちは未来を創造しつづけたいと願っています。音楽・芸術文化への限りない愛を胸に。」と掲げた宣言文は小学生の頃に父から聞かされた戦争の話に起因していることは言うまでもありません。
 2015年5月にコンコルディアも創業12周年を迎えました。創業時にプロデュースした「JUPITER」のテーマもいのちへの思いを伝えるものでした。丁度、干支が一巡したことを機に、また原点からこの仕事をスタートさせたいと思い、プロデューサー名を旧姓の藤橋由紀子として活動することにしました。
リーマンショック東日本大震災、日韓問題と苦難の日々は続き、言葉さえ失う日々でしたが、戦争で苦しんだ人々のことを思うとへこたれてはいらないと何年振りかにこのブログを書きました。音楽を通していのちへの思い、平和への祈りを伝え続けていくことを胸に誓う私の2015年8月15日でした。

                                               プロデューサー藤橋(近藤)由紀子