市川雷蔵と母の思い出

私が大学生になって初めての夏、故郷である能登半島の七尾に帰省した時のことだった。母親から「ゆっこ、今からお寺に一緒に行かんか。」と突然誘われた。北陸は蓮如浄土真宗の布教活動をした地で、お寺が町の多くに散在しており、人々のコミュニティの場所にもなっていた。「ゆっこ、あの市川雷蔵が亡くなってしもうた。私の人生にあんなに楽しみをくれた人やから、ありがとうを言って、住職にお経を上げてもらい、冥福を祈らなね。」と母は私に言った。
「銀幕の貴公子」と呼ばれ、昭和を代表する時代劇スターだった市川雷蔵は37歳の若さで癌という病に侵されその幕を閉じたのだ。二人は黙って淡いベージュのレースの日傘で照りつける太陽を除けて、路地の狭い道を抜けて寺へと向かった。夏の暑い日だった。
物心がついた頃から東京に出るまで、私は母と市川雷蔵の主演する映画をたくさん見た。兎に角美しい眠狂四郎の容姿と円月殺法は少女だった私にさえ格好良く映った。霧隠才蔵の黒ずくめの覆面から投げかけられる鋭い眼差しは現在でもしっかりと脳裏に焼きついているし、高校生時代に見た三島由紀夫の小説「金閣寺」の映画化「炎上」も忘れられない現代物の雷蔵だった。日本独自の不思議な魅力を感じた。若くて美しい姿のまま夭逝した雷蔵のあの時の目は、儚い美しさ、そして悲しみを帯びた目を確かにしていた。私の母もまた、たくさんの涙を胸に沈めて生きてきた人だったからきっとその目に魅かれていたのだろう。
私が小学生だった同時代にアメリカから鮮烈にやってきた映画「エデンの東」「理由なき反抗」のジェームス・ディーンもまた同じような目をしていたように私は思う。当時、反抗的な若者の心を鋭く抉ったその役を見事に演じて世界の人々を今日でも魅了してやまないジェームス・ディーンもまた、交通事故で24歳の若さで亡くなった。市川雷蔵とジェームス・ディーンに共通していることは、幼い頃に実の親との別れがあったこと。私の母もまた、3歳の時に父親を亡くしているから、同じ悲しみを深いところで感じていたのだろうか。
母は住職に当時のお金ではかなり高額のお布施を包んでお経を上げてもらい、母と私は雷蔵に手を合わせた。母の閉じた目から涙がこぼれているように見えた。目を閉じて合掌している間、きっとスクリーンの雷蔵の顔が走馬灯のように母の頭の中を駆け巡っていたに違いない。母にとって映画はお金では買えない人生の大切な記憶だったに違いない。同時に、私にとっても映画は生涯忘れることの出来ない亡き母との大切な思い出であった。
その母の存在こそが、私に多大な影響を与え、現在、音楽・芸術のプロデュサーとして活動している所以であろう。音楽や芸術が人の心の奥に届く力を信じてプロデュサーとなって10周年を迎えた現在、母に感謝せずにはいられない。
市川雷蔵が亡くなったのが1969年7月17日。母も偶然だがその10数年後の同じ7月30日に亡くなっている。市川雷蔵と母の思い出は私がどれ程の年を重ねても色褪せることなく映画のシーンのように蘇る。
                                    音楽プロデュサー 近藤由紀子


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